愛しき日々-07
 どれぐらいそうしていたのか、よく判らないし判ろうとも思わなかった。
 ただはっきりしているのは、いつの間にか陽が落ちていて室内が冷えてきたことと、涙も鼻水も出すだけ出した疲労感で、目鼻の奥や頭が重いことぐらいだ。
 それに根気よく付き合っていたアーチャーの手にはだいぶしっとりしているハンカチが握られていて、傍らのテーブルに置かれた箱ティッシュ。そしてその脇に丸められた使用済みティッシュの山。
 背中はずーっとあいつの手が撫でてくれていて、そこだけとても温かかった。
「……落ち着いたか…?」
 声を出すのも億劫なので、こくりと頷く。そうか、とだけ返してきたアーチャーを見上げるのもなんだか妙にしんどくて、わめき散らして泣いた疲労感で身体が重かった。
 正直、ここまで声を上げて延々泣いたのは、生前含めて初めてのような気がする。生き急いだ結果、し忘れたことの一つってことか。それにしてもとんでもねぇ失態だ。
 ぼんやりとした表情の俺を眺めていたアーチャーが、ソファから腰を浮かせる。その反応に、何か言おうとするよりも先に腕が伸びて、気がついたらアイツの服の袖を掴んでいた。
 俺も驚いた顔をしていただろうが、当然の如く随分驚いたらしいアーチャーが、眉を跳ね上げてこっちを見ている。かなり素で驚いたって顔だ。
 何か言おうとしても口が巧く動かない。あ、とか間の抜けた声を上げて手を緩めようとした瞬間、そこに覆い被さるみたいに大きな掌が重なる。
「冷やしたタオルを持ってくるだけだ。すぐ戻るから」
 優しい声が鼓膜を打つ。
 丁寧な手つきで剥がされた手を膝の上に置いて、俺はただ頷くしかできなかった。

 本当にすぐに戻ってきたアーチャーは、水と少量の氷を浮かせたガラスのボウルと小さなタオルを持って、さっきと同じ場所に腰を下ろした。
 てきぱきとした所作で濡らしたタオルを固く絞って、こっちに差し出してくる。受け取ろうと伸ばした手に乗せられたタオルは、ひんやりと冷たくて心地よかった。
「目」
「……?」
 何を言われているのか判らなかった俺が首を傾げると、アーチャーが小さく笑う。冷水に冷やされた指先でそっと目尻を撫でられて、冷たさ以上に感じる心地よさに少し驚く。
「だいぶ腫れているから、火照って辛いだろう?」
 冷やすといい、と添えられた言葉に頷いて、正方形のタオルを三つに折って額から鼻先までを覆う。ぼうと熱を持っていた肌が冷まされていく気持ち良さに、知らないうちにくたりとしながら息をついた。
 それにこうすれば、あいつの表情を見ることもないし、こっちも見られなくて済む。
 何となく視線をあわせるのを避けたかったから、目隠し代わりにもなるタオルは丁度良かった。
 背凭れに寄りかかって両腕を下げて、タオルは落ちないように顎は上げ気味に。隙間を作らないで広い範囲を覆ったタオルがゆっくりと、肌の熱を吸って温まっていく。
 隣でぴくりとも動かないアーチャーが、ぬるくなったタオルを取ろうと上げた手を制して、何も言わずにまたタオルを冷水に浸して絞った後に顔の上に乗せてくれる。こう言う時の察しの良さと言うか、気の利き具合は申し訳なくも有り難かったし、替えてもらう間は目を瞑っていれば表情もへったくれも無いので、素直に甘えさせてもらった。
 言葉を探して何度も口を開きかけて、また噤む。
 半端な高さに上げっ放しの手を体側に落とすと、本当にすぐ隣にアーチャーの身体があって、ちょっと笑ってしまった。
 ん、と問うような声が落ちてきたから、手で探るようにして奴のシャツの袖を握る。振り払おうと思えば簡単に出来る緩さで握りこんだ生地は、そのまま動かなかった。
「……取り乱して、悪かったな」
 握りこんだ生地に体温が移る頃に、ようやく言葉が出てきた。
「いや。……驚きはしたが、こちらの察しの悪さを責められても無理は無いさ」
 あるある。あります。だから謝り返さねーでくれよ、頼むから。ガキの癇癪なんだから、お前がこれ以上謝る必要なんか一切、これっぽっちも、まるっきり、カケラもねぇんだからな。
 俺の願い(?)が通じたのか、アーチャーはそこで言葉をとめている。
 目の腫れが少しだけ落ち着いてくると、やっぱり沈黙が居た堪れない。何か言おうと思っても開きもしない口がもどかしい。
 ふと、知らないうちに下がっていたらしい口角に、硬い感触の指先が触れる。
「…ん、」
「……ランサー」
 スプリング一つ軋まない柔らかなソファの上で体重が移動して、俺の身体の横に膝をつく気配がする。微かな衣擦れの音の後、明るい色の薄手のタオル越しにふっと視界に影が差した。
 頼りなく縋っていた袖が動いていて、殆ど力の入っていなかった手は座面に落ちた。その袖を通した腕にタオルを剥がされると、腫れぼったさの引いた瞼が外気に晒されて薄く痛んだ。視線は少し俯けてはいたが、この近距離でそれもどうかと思って意を決して視線を上げる。
 目の前には、少しだけ眉尻を下げた、弱ったようなアーチャーの顔。
 どこか気もそぞろな表情でタオルをボウルの中に落とすと、指先がまた口角に触れる。そこから頬を包み撫でるみたいにして、半端に冷えた掌に頬が乗せられる。
 ひんやりした掌が心地よくて頬を懐かせると、もう一方の頬にも掌が添えられて顔をすっぽり包まれる。濡れタオルで冷やされた肌にゆっくりと互いの体温が馴染んで温まっていく感触に、とろとろと瞼が下りていく。
 いや待て、寝てる場合じゃねぇだろうが俺。なんでこうも消耗してんだ? 泣くのってこんなにしんどいのか!?
「ランサー……?」
 触れてくる肌の温みと感触そのものの心地よさに引きずられて、動こうと思っているはずなのに身体がまったく動かない。
 重たくなった瞼越し、灰色の目が近づいて来る。
「ぅ、ン………」
 返事もまともに出来なくなって、近づくアーチャーの顔にもピントが合わなくなってきた。いや、ピント云々はどう考えても近すぎるからだろーと思うんだが。
 薄く開いたままの唇を吐息に撫でられたところで、額が遠慮がちに触れてくる。
「……、…」
 低い声が何事か呟いている内容を把握し切れないまま、ついでにそれに応えようとしたらしい、言葉になっていない自分の声を鼓膜に入れたのとほぼ同時、降りた瞼に引きずられるように意識が落ちた。



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