枯れずの太陽-02
 殆ど明け方に近い明るさの空の下、澄んで張り詰めた空気の中でアーチャーは迷い無く『通り掛り』の道を進む。
 行きがけに立ち寄ったマンションの前で立ち止まると、戸惑うように足を運びかけては踏みとどまる。
 暫しの葛藤を経た彼は結局エントランスを潜り、ゆっくりと階段を登り始めた。
「………」
 溜息のように吐き出した息は白く濃く、視界が一瞬けぶる。
 片目を眇めるようにしてそれをやり過ごし、目指し、辿り着いた最上階のフロアを進む。
 さしたる時間も掛からずにあっさりと辿り着いてしまった目的の部屋のドア前に佇み、チャイムにかじかんだ手を伸ばす。
 結局ボタンの上に置いた指先を押し込むことはないまま、控えめにドアをノックするべく人差し指を握りこんで、コツコツ、と二回。
 全く応答を期待しないで俯いた矢先───ゴッ、と鈍い音と共に、アーチャーの視界が一瞬闇に染まった。
「───ッ、……!?」
 不覚を取り倒して目の前に星を散らしたアーチャーは、上がりかかった悲鳴を無理やり噛み潰し、額と鼻先を押さえて後ずさる。
 彼の視界を真っ黒く染め上げたドアの向こうから、笑いを堪えるようなランサーの顔が覗いた。
「よぉ。…用事、済んだのか?」
「……、…の前に、何か言うべきことが有るんじゃないの、か…、貴様………」
 鼻を押さえて睨むせいで(しかも心なしか涙目)、鼻声になったアーチャーの恨み節などどこ吹く風と言った調子で、にっこりと笑顔を作るランサー。
 毒気を抜かれるどころか怒りしか煽られないその反応に、アーチャーは掌に隠れている口角を引き下げるだけ下げて不服を現す。
「まあ入れって、冷えるしよ」
 取り成す声に仕方なさそうに頷くアーチャーは、手を下げて不満げな表情を晒したまま部屋の中へと踏み込み、後ろ手に扉を閉める。
 そのまま背を向けてチェーンも掛ける。この部屋に足を運ぶようになって以来の習慣じみた所作に、ランサーが笑い声を漏らした。
 声の源は彼のすぐ耳元。
 珍しく狭い玄関からどかずにいるランサーが身を寄せてきて、アーチャーは中途半端に横を向いた格好のまま、ドアとランサーの体の間に挟まれる格好になっていた。
「な……」
 何を、と言いかかった言葉が途切れて、焦点が合わなくなるほどの近距離に迫るランサーの顔に思わず息を潜める。
 酷く人懐っこそうな、嬉しそうな笑みを浮かべているらしいランサーの顔を見たがるが、距離を作った先から削られて、アーチャーはもどかしげに身じろいだ。
「あーあ、赤くなってる」
 ついでに熱いな、とぶつけてじくじく痛む額に淡く触れられ、痛みが悪化して呻く。
「……誰のせいだ。ハロウィンにしても時期が過ぎているぞ、たわけ」
 するならまずお菓子はと先に聞け、と遅れてくっついてくる説教に、悪かったよ、とまたランサーが破顔する。
「まさか避けねえとは思わなかったからさー…っても、全速じゃなかったし、血も出なかったろ?」
「そういう問題ではないわ、たわけ!」
 避けられなかった自分を棚に上げて、ぐいぐいと肩で押し返す。その肩に半ば圧し掛かる形で身を寄せるランサーは、相変わらず笑っていた。
「……いっぱい、言われてきたか?」
 唐突に降ってきた声に一瞬思い当たれなかったのか、アーチャは酷く間の抜けた表情を浮かべる。
 それを目の当たりにしたランサーがむしろ驚いたように目を丸くして、また笑みを爆ぜさせた。
 戸惑いながらも身じろぎするアーチャーに応える様に僅かに身体を離し、身体ごと向かい合う。
 待つ間すらもどかしいような焦れた顔をしたランサーが、再度距離を詰めてそのまま、アーチャーの冷えた頬を掌で包み込んだ。
「何、を……」
「おかえり、ってよ」
「────、……ッ…」
 唇が開いて、声無く彼の『名前』を口にする。
 そのままもう一度、おかえり、を繰り返す。
「ラ………」
「おかえり、 ………」
 今度は口に出してはっきりと。
「時間きっかりの祝いは…嬢ちゃんたちのもんだけど、な」
 それなら、最後の一言は自分が。
 言葉無く告げられた彼なりの拘りに、ぶつけてもいない目許がじわりと赤らんでいく。
「これぐらい、いーだろ?」
「ランサー……、……クー…、……」
 上擦った声で彼の器の名を、それから真名を呼んで、彼の背に腕を回す。頬を挟んでいた掌がそのまま頭を抱え込むように伸ばされ、寄り道をして後ろに撫で付けた白い前髪を崩していく。
 掌に温められて少しだけ温んだ頬に、同じぐらい温かな頬を寄せてもう一度、おかえり、と耳元に吹き込まれるランサーの声に、アーチャーは酷く心地良さそうに浅く頷いて笑みを浮かべた。
 浅黒い肌に判り難く浮かぶ朱色が耳先まで伝播して、熱を上げる。
 たまらないように、彼の名前を呼ぶ声が掠れた。
 頬を押し返すようにして肌に懐いてから、それを合図にするように顔を上げて、額を触れ合わせる。
 そうしてから鼻先を、唇の表面を掠めさせ、控えめに懐く。
 ぶつけた鼻先も額の痛みも紛れるような飽和した感情にほんの少し、灰色が揺らいだ。
「……、…ただいま、クー」
 額を、鼻先を触れ合わせたままの彼が頷く気配がして、もう一度、笑みを交わして『ただいま』を繰り返す。
 二月の始まり、最初の朝日が顔を出して、部屋を明るく染め始めた。


End



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