侵蝕-06
「───…、………」
 礼拝堂の石床の冷たさに、ゆっくりと瞼を起こす。
 全身を未だ鈍く苛む疼痛と、その内を巡る受容し難い魔力の充実に眉を顰めつつ、細く息を吐く。
 すでに鎖の拘束から解放されているにも拘らず、指先一つ動かさすことも出来ないまま、ランサーは小さく舌打ちをした。
「目が覚めたかね、ランサー」
 耳に届いたのは神父の声。
 それは初めの接触の際に己の鼓膜を撫でた色と変わらぬ、穏やかな、平坦なもの。
 身を起こしかけたところで、床に近い視線が捉えたのは、色の褪せ始めた血溜まりの中で倒れたままの女性──バゼット・フラガ・マクレミッツと、その脇に佇む言峰の姿、だった。
 これ以上の暴虐を加えさせるものか、と床に手をつき、身を起こす。
 殺気を込めた視線を言峰の横顔に注ぎつつ、蒼い兵装を編み上げ、勢いをつけて立ち上がる。
 痛みの余韻は其処此処に在っても、奇妙なほどの身体の軽さに槍兵は、その原因を思って再び舌打ちをした。
「貴様、これ以上───」
「回復が早いようで、何よりだ」
 視線を物言わぬバゼットに注いでいたままの言峰が、口を開いてその後、槍兵を漸く一瞥する。
 殺気をまるで無視しての乾いた声に気勢を削がれたが、何を、と問いたげに双眸を眇めた槍兵の、威嚇する表情は変じることはない。
 その様子を見て神父は再び、僅かな笑みを双眸に宿らせる。
「……さて、早速一働きしてもらおうか、ランサー」
「…何、だと」
 訝しげな問い掛けに、言峰は笑みを深め、視線で床の上の彼女を示す。
「彼女を、宛がわれていた住居まで送り届けろ。
 ……それから、まだ身体に魔力が馴染んで居ないだろうからな、『食事』でもして来ると良い」
 それだけ告げて踵を返す。
 居住区へ続くのだろう、祭壇脇の扉に向かう背中を再び睨み据えながら、彼女の脇──先程まで神父が佇んでいた場所で、足を止めた。
「了解したぜ、クソマスター。…今に」
 地獄に叩き込んでやる。
 小さく添えた言葉に足を止めた言峰は、ドアノブに手を掛けたところで肩越しに振り返り、
「……良い返事だ。お前の働きには、期待をしているよ」
この上なく柔らかい笑みと声で槍兵の鼓膜を撫で、そのまま奥へと消えて行った。


 扉が閉ざされ、その奥の足音も階上へと昇った頃。
 槍兵はそっと、壊れ物を扱うように彼女の身体を抱き上げる。
 温度も鼓動も確かめることはなかったけれど、得られぬ温もりを探すように、一度だけその額に鼻先を寄せた。
 生の臭いを色濃くまとう己の膚に応える彼女の感触は、冷たく、おおよそ有機的な色も無い。
 その感触を刻み込むように少しの間、槍兵はじっと、呼気さえ止めて双眸を伏せた。

 ややあってから細く息を解き、ゆっくりと瞼を起こす。
「───この程度で」
 堕ちてなどやるものか。
 きし、と歯噛みする音に紛れた呟きは低く、石床を叩く足音に紛れて消えた。
 礼拝堂の扉を蹴り開け、薄まり始めた月光すら疎ましがって、冷えた明け方の風に身を躍らせる。
 目指すは小高い丘の中。林の先、かつての彼女の拠点であり、──己が初めて、座よりこの地へ降り立った、洋館。

 武装に淡く染み込み、青を塗りつぶす赤色の臭いに双眸を眇めながらも。
 槍兵はただ、夜を往く。


 最悪の始まりをそれでも、己が身に受け容れて。



End



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