侵蝕-01
 おおよそ、神の加護を象徴する施設に似つかわしくない温度と湿度。
 床に這うのは、生命の残滓──むせ返るような血液の臭い。
 神域のはずの其処だけが、加護から遠く離れた奇妙な闇に包まれているかのようだった。
 その煮凝った空気を震わせるのは、重い鎖音と、男の息遣い。

 まるで、出来の悪い芝居のような。どこかで現実を認めたくなくて、ふとそんな風に思いが巡る。
けれどソレは決して絵空事などではなく、れっきとした事実。起こってしまった、現実。
 ほんの少し前まで、息をしていたはずの彼のマスターは、マスターである証も、その生命をも無くして横たわっていた。
 それを止めようとしたのだ。彼女に剣を振るった神父を、串刺しにしようと。神速を以って駆けた瞬間、金属の重なり合う音とともに押し寄せてきた鎖に絡め取られ、このまま壁に縫い付けられてしまった。
 どうあがこうとも外れることは無く、ランサーはただ、眼前で彼女の血液が床に広がっていくのを見ていることしか出来なかったのだ。
 彼女からの魔力供給のラインがぐっと細まった瞬間と、彼女の傍らに座した聖職者が立ち上がるのはほぼ同時で。
 こちらを振り返った神父が、彼女の左腕を。肘から下だけになったそれを『持って』いた。
「──、貴様…」
 そこに刻まれた令呪は、いまだ輝きを無くさず。
 恐らくこれから起こるであろう唾棄すべき事態に、槍兵は剥き出しの殺意を叩きつける。
 それを意にも介さず、緩い笑みを向けた神父は、こちらに歩み寄りながら唇を開いた。
「主替えの意向に賛同せよ。ランサーのサーヴァントよ」
 微かに生命活動の名残を残した彼女の左腕に刻まれた令呪が、その声と共に淡く光る。
 抗うことの出来ない、強力な『命令』。英霊を従えることの出来る、人のみに許された切り札。
 令呪の拘束が、彼を蝕んだ。
「ふざけ、やがって…!」
 精神を歪曲させる拘束に、抗うように絞り出した声。
 にじんだ汗に濡れた蒼髪を額に貼り付けたまま、ランサーは目の前に立つ神父を睨み据える。
 鎖によって、壁に張り付けられたその状態で尚、殺気を孕んだ視線が弱まることは無い。
 その様子を、淵のように昏い目で見下ろして、神父は穏やかに笑う。
「私はあくまでも真剣だよ、ランサー」
 この場にそぐわぬ穏やかなその声に、ギリ、と槍兵は奥歯を鳴らす。
「もはやこの令呪も、お前の所有権も私のものだ。…それがどういう意味かは、判っているだろう?」
「…俺は…認めねえ、ぞ…」
 呪詛にも似た声音が、低く低く、這う。
 それは、サーヴァントという役割の上での言葉はなく、一人の英霊としての、意思。
 拘束の真逆にある意思をねじ伏せるような『力』は、容赦なくランサーの魔力を奪い、総てを消耗させる。
 このサーヴァントは、面白い──とでも言うように、神父の笑顔が深まった。
「認めようが認めまいが、事実として」
 そこまで告げると、左手で強くランサーの髪を掴んで、無理矢理に顔を上げさせる。
「ぁ…ッ、ぐ…」
 痛みに歪んだ表情を舐るように眺めたあと、鼻先が触れ合うほどに顔を寄せ
「もはや私に従属するより他に、現界の手段なぞ無いのだよ」
 誇りを手折るように、解り切った答えを叩きつけた。
「ぅ、グ…」
 間近、視点が合わぬほどの距離。睨みつけた神父の瞳は、谷底のように深く、暗く、得体が知れない。恐らく、光の御子とも呼ばれる彼とは決して相容れぬ、強力な光をも呑むような闇が、そこに在った。
「──ああ、…その言葉と、お前個人の意思はどうあれ」
 クク、と喉を鳴らして神父が笑う。まるで蔑むようなその笑い声が酷く不快に感じられて、ランサーは再び奥歯を軋ませた。
「黙れ、下衆──」
「その身体は既に、私の魔力を欲しがってさえ、いるようだがね?」
「──!」
 罵倒の言葉は、事実を告げる声に塞き止められた。
 微弱ながらも既に、己の身体という器はこの眼前の神父と魔術回路を繋いでしまっている。
 それは、意思では押し留め切れない令呪の拘束によるものと、己の往生際の悪さが出した結果だった。

 ──この淵のような男は、己から、どれだけのものを奪えば気がすむと言うのだ──。

 召喚者を、誇りを、自由を。そして、望みをも奪うに違いないのだと。奇妙な確信さえ抱くほど、ランサーはこの新たなマスターを憎んだ。
「このまま、意地を張って消えてしまえるほど、潔くも無いだろう?お前は」
「口が過ぎるぞ、下郎…ッ」
「…言峰綺礼、だ。マスターの名前ぐらい、きちんと覚えるのだな。クー・フーリン」
 真名を口にされることで、不可視の枷がかけられるような錯覚に襲われる。
 先ほど告げられた通りだった。もう、認めるより他無いのだ。己の新たなマスターは、この男──言峰綺礼であるのだ、と。
「…ちく、しょう…」
 最後の悪あがきのように、ランサーは萎えた声で毒づく。
言峰はその様子を見て取ると、満足気に目を細め、微笑んだ。



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