こいねがう
 随分と冷えた明け方に比べて、穏やかな日差しに温められた風に頬を撫でられ、閉じていた目を開く。
 その風に乗せて奏でられる讃美歌と、それを歌う人々の声に、ランサーはふと、気怠げに開いた緋色を撓ませた。
 『音』に善悪はないのだと、こんな時ふと彼は思う。
 あえてあるとしたら、美醜という概念がもっとも近しい。
 自分が駆け抜けた時代の中でも『うた』は重要な意味をもっていたし、言葉には魔力があり、歌い上げる事で魔術として成立させる───例えば、『誓約』にしてもそうだったから、『讃美歌』の旋律はランサーにとっても、聴いた事は無くても耳なじみの良い、美しい音だった。
 例えそれが、自分にとって許し難い存在の相手が奏でるものであっても。
 実際、神父として勤めを果たしている男の姿は、多少の胡散臭さは兎も角、どこまでも敬虔な信徒のそれだった。
 とは言え、信仰に懸ける熱意というより、もっと温度の低いものを彼からは感じていたし、讃美歌を奏でる指も、積み重ねられた鍛錬の賜物のほかに、その対極にあるようなものが含まれていると、そんな風に思う。
「……でも」
 奏でられる音は純粋に美しいと思うし、それは奏者の性質とは、恐ろしいほど関係がなかった。
 それは当たり前のようでいて、とんでもない矛盾だとしても。
 たぶん己以上に奏者自身がその矛盾に眉を顰めているか───それとも、そんな矛盾ごととっくに遣り過せるようになってしまったのか。それは判らないけれど、ランサーは前者を願わずにいられない。
 けれど、この歌はとても美しいのだと、彼は改めて思う。
 それを口にしたらそれこそ、少しは嫌味になるだろうか。
 いっそ沈痛な面持ちでもしてくれれば、ささやかな仕返しにも成るような気がするが───等と、無粋に傾く思考にひとり苦笑して、すぐに横に追いやって忘れる事にする。
 確かめるつもりもない方向に思考を遊ばせて、ランサーはまた、音を追うために目を閉じた。

 教会の入り口再度開かれ、信徒がぱらぱらと帰路に向かい始める。
 足音もやがて遠ざかり、オルガンを奏でる音も聞こえなくなり、がらんとした静けさが戻ってくる。
 そうしてからようやく、ランサーはつまらなさげに目を開いて、ここ暫くの指定席になっている樹の上から教会を見下ろした。
 重たげな門扉の前には神父の姿。浮かぶ表情は空虚。
 酷く遠くを見るような視線を投げていた顔が、常のものよりもどこか違って見えて、つい、興味を惹かれて注視する。
 そんな彼の様子に気付いてか、神父の視線がランサーがいる樹上を見遣る。
 既にいつも通りの無表情に戻った神父はその一瞥を最後に踵を返し、門扉の向こうへと歩いていく。
 無言の窘めに片眉を聳やかして、ランサーは一先ず礼拝堂に戻ることにした。

「なぁ」
 再度実体を編んで立ち、床を歩き、手近な信徒席の傍で立ち止まる。
 投げた声と一連の動作に、祭壇の天板を磨く手を止めた神父が、ランサーへと興味の薄い視線を投げた。
「任務はどうした、ランサー。随分とのんびりしていたようだが」
「一通り見てきたさ。……戻ってきたら、綺麗な歌が聞こえてきたんでな、つい聞き惚れてた」
「…………」
 表情の揺らぎもなく、ただ一度目を瞬かせた神父から、教会の隅に置かれた質素なオルガンに目を向ける。
 あれ、と口にしてオルガンを示して、長椅子二つ分の距離を削った。
 体側を向けていた神父が、自らのほうへ向き直る所作を横目に引っ掛ける。そのままランサーは、壇上に立ち、尚且つ自分よりも上背のある男の顔を見上げて口を開いた。
「あんたが弾いてたんだろう、讃美歌の伴奏」
「……それが、どうかしたのか?」
 ある種、予想通りの反応を得たランサーは一度、肩を聳やかす。神父はその所作を視界に入れると、すぐに祭壇を磨く作業に戻った。
 その横顔を眺めながら、ランサーは口を開く。
「アレだけの音を、その仏頂面のままで弾いてるのかと思うと、ちと勿体無く思ってな」
 変わらぬ無表情が揺らいで、僅かな驚きに双眸が瞠られる。光を弾かない無機質にも映る濃茶の双眸を向かせる事が出来て、ランサーは内心ほくそ笑んだ。
 天板の艶を出す役割を終えたクロスを片手に持ち、神父は言葉を探すように一度、オルガンへ目を移す。
「……お前の言葉の意味が、よく判らないな」
「そうか? 俺はそのまま、自分の所感を口にしただけなんだが」
 オルガンへ視線を固定して、己のサーヴァントを視界に置かないままに、言峰は一度口をつぐんだ。そこに浮かぶ表情の奥を探るように、ランサーは緋色の双眸をじっと、彼に固定させている。
 底知れないくせに空虚な横顔が、僅かに機嫌を傾がせていることぐらいしか、捉えられなかったけれど。
「ならば、その所感ごと……お前は、理解出来無い『異物』なのだろうよ、私にとって」
「……は…?」
 眉の高さを互い違いにして、怪訝そうな声をあげるランサーを尻目に、言峰はそれだけ言い残して背を向け、奥の居住区域に続く扉を開く。なんだそりゃ、と続いた言葉は、扉を閉める音を聞かせて返事の代わりにしたようだった。

「『異物』ねぇ……」
 来客が無いのをいいことに、武装のままで手近な信徒席に腰を下ろし、脚を組む。背凭れに肘を乗せた怠惰な格好で椅子に身を預けつつ、高い天井に視線を固定し、ランサーは先ほど交わした会話を幾度と無く反芻していた。

 ───お前は、理解できない異物なのだろうよ、私にとって。

 引っかかる言葉はそこだった。
 エーテルで構成された、限りなく本物に近い偽物の体の中にすっぽり納まった、使い魔として使役されるべく召喚された過去の英雄。
 半神半人の、この世界にとってはどこからどう見ても異物そのものの自分を、『私にとって』の異物と呼んだ言峰の物言いは、どこか無視できない響きがあった。
「俺に限らず、この世のもんなんて誰も彼も異物じゃねえか、とは思うんだがなァ」
 天井の高い礼拝堂は、気の抜けた呟きを殊更に響かせる。
 ランサー───クー・フーリンにとっては、今在る世界も、過去、彼自身の生命を燃やしてきた世界も、異なるものに囲まれているからこそ興味は尽きなかったし、その差異によって自らが浮き彫りになる瞬間さえも、愉しめるものだった。
 理解の範疇を越える物事に突き当たってさえ、それを可不可を問わず感知し、己の中に取り込めることそのものも、そう悪くないと言う所感を抱いている。
 どんなに受け入れ難いものでも、許し難いものでも、その事実を受け止めたあとに巻き起こる感情のうねりそのものは、ランサーは意外と嫌いではなかったのだから。
「それとも、言葉にすることで何がしかの認識でも新たにしたのかな、うちのクソマスターは」
 ヤレヤレと肩を竦め、だらしなく長椅子の背凭れに寄りかかって、ランサーは再び息をついた。
 口の中で緩やかに転がす讃美歌の旋律を、高い天井に吸い込ませながら緩やかに瞼を伏せる。
「───理解者になる気なんざ、毛頭ねぇけど」
 旋律の記憶が途切れたところで、思考がそのまま音になった。
「どれほど俺が、てめぇの理解から離れているか……聞かせて貰いてぇもんだ」
 ぽつ、と零した自分の声が象った言葉の内容に、ランサーは今更のように苦く笑う。
 嫌悪しようが許容出来なかろうが、あの神父に対して無関心になることの出来ない自分を思い知ったような顔のまま、蒼色の槍兵は実体を解いた。



End



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