煙草
 冬の夜に呑む煙草は、酷く旨い。
 乾燥した外気が良いのだろうか、なんて思いながら、屋上に続くドアを開く。
 草木も眠る丑三つ時。都市は眠らず人も眠らず。ぶっちゃけ俺は仕事で眠れず。
 眠気覚ましもかねて、あえてジャケットを席に置いて真冬の外気に挑んだ俺は、マッハで眼を覚ます羽目に陥り、ついでに軽い後悔までしていた。
「ちっくしょ、さみー…」
 さすがに無謀だったと独りごちて、持っていたソフトケースから煙草を取り出し、唇に挟む。
 使い込んだジッポの蓋を小気味よく鳴らして開くと、風避けに手を宛がって火を点けた。
 ライターの炎が消えると、殺風景な屋上に色気の無い蛍ができあがる。
 その蛍から出る紫煙が夜の空気に溶けていくのをぼんやり眺めて、深く深く吸い込んだ煙を吐く。
 ぽは、と、溶け込んでいく細い道を掻き消す、呼気に薄められた煙が、奥の夜空を薄めるように広がる。
 寒いけどまあ、悪くない。
 なんて、ひとりで上機嫌になっていたところに、唐突に扉が開く音。続いて床を叩く革靴の音が近づいてきて、視線をそっちへ移す。
「…随分と涼しい格好で」
 半ば呆れたような声とともに、同僚のエミヤがこちらへやってきた。
「よー。…って、オマエも人のこと言えねえ格好じゃねえか」
 やってきた当人も、俺と同じくワイシャツ姿。
「お前のように、上着を持たずに来るほど考え無しではないよ」
 ふ、と鼻で笑うと、片腕に引っ掛けたジャケットを軽く掲げる。まあ、普通はそうするわな。
 こんなことでいちいちやりあうのも馬鹿らしいので、適当に流すことにする。
「オマエも社泊?」
「まあな、…そんなところだ」
 相変わらずこう、言動にいまいち遊びが無いというか、面白味も何も無い。真面目なのは良いんだが、いかんせん皮肉っぽいところがあり、こいつとはどうもそりが合わない。
 仕事をする上で必要な、最低限のコミュニケーションしかとらずにいることで、衝突を避けてはいるものの。ある種の緊張感を強いてくるこいつの余裕の無さが、俺はいまいち理解できないし、有り体に言えば苦手で。
 向こうは向こうでこちらの大雑把さが鼻につくらしく、よく渋い顔をしているので、その辺はお互い様といったところなんだろうが。
 そんなことをだらだらと考えながら、そいつを何とはなしに眺めていると、視線がぶつかった。
 視線を受けたエミヤが、ふむ、と小さく首を傾ぐと、こちらに向き直り。
「火、貰うぞ」
 唐突に腕を掴まれて、無理やりこっち向かされた。
 返事も聞かずに、銜えたシケモクの先を俺の煙草の先にくっ付けると、奴は二、三度煙をふかす。
 暗い屋上に、2つ分の煙草の火種に照らされた相手の顔が、やけに明るく映る。
 鉛色の目が思いの外近くて、俺は知らずに息を呑んだ。
「…どうした?」
 腕を掴んだまま訊ねて来る奴に、言葉を返せないまま。とりあえず眉を思いっきりしかめて無言の返事。
 離せといいたかったわけだが、当の相手は軽く首を傾げただけ。いいから離せ、チクショウ。
 視線で毒づく俺を尻目に、空いているほうの指に煙草を挟んで、フウと紫煙を吐き出す。
 訝しげに視線をやるとこれまた唐突に、俺の煙草を持った手を口元から剥がし。
 次の瞬間、さっきよりも近くに顔を寄せてきて

 喰い付くような、キスをされた。

 「……!、?!」
 無遠慮に入り込んでくる舌に、口の中を掻き回されて、引っ込みかけた舌を絡めとられてじゅくじゅく吸われた。
 ものすごい至近距離で視線が絡んでくる。いつの間にかもう一方の手でがっちり押さえつけられて逃げられない。
 状況に理解がついていかずに混乱する中、耳の奥に粘っこい水音が響いて、更に思考がぼやける。
「…んッ、ふ…」
「……、む…、」
 時折角度を変えるたび、俺のだか奴のだか判らない吐息と、くぐもった声が漏れる。
 不意に舌先が口蓋を掠って、ぞくぞくと背中が粟立った。
「ふ、ぅ…っ、ッは…」
 煙草の煙のにおいが、夜の乾いた空気にほんのりと乗る。煙草独特の味が、咥内に伝わる。
 息が苦しい。繋がった唇と、お互いの呼気と、絡まる舌が熱い。

 ちゅく。

 唇と舌が離れる音。その音と一緒に、細い、唾液が作った糸が唇に残った。
 ぼやけた思考を醒ますような、指の皮膚に近づく熱さに、短くなった煙草をぽたりと落とす。
「な…に、を」
 息を乱したまま、突然の奇行を問いただすべく言葉をかける。
「なにをって」
 しれっとした表情を浮かべる目の前の男は、にや、と云う音がよく似合う笑みを浮かべて

「味見を」

「……はぁ!?」
 我ながら間抜けな声が出た、と思う。
 ──面白くねえ。全く持って腹立たしい。
 しかも、何を言えばこいつにダメージを与えられるか、それさえも思いつかない。
 相手の行動にも腹が立つし、それに報いる手段がない己にも腹が立つ。
 落ちた煙草の吸殻を、八つ当たりするようにぐしぐしと踏み消して、ため息を漏らした。
「何、冗談だ。これで目も覚めただろう?…戻るぞ」
 そんな俺の様子を知ってか知らずか。傍らの赤いバケツに吸殻を放り込んだ男は、とっとと階下へ続く扉に向かって歩き出す。
「ちぇ。わーったよ」
 イマニミテロヨ。
 向けられた背中に盛大に舌を出すと、散々に踏み拉いた吸殻を拾って、奴の後を追った。



End



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