臆病な花
「桜、すまん!」
 居間から、慌てて駆け込んできたのだろう先輩の声が聞こえてきた。
 今日は珍しく朝寝坊。寝癖もそのままで、本当に寝起きみたい。
「おはようございます、先輩」
 朝食の支度をしていた手を止めて、きちんと挨拶。
 別に約束していたわけでもないんだから、ゆっくり休んでくれていいんですよ、先輩。
 きっとそんなことを言っても、でも、と首を横に振る頑固な人だけど。
「ほんとスマン…すっかり任せちまって」
 朝ごはんの支度だって、きっちりと決まった当番制ではないのに。
 そんなにすまなさそうな声で、言わなくてもいいのに。
 ちょっとだけ困って、けどそんな先輩を見て、思わず笑顔がこぼれる。
 決まり悪そうな表情が、なんだか可愛い。
「大丈夫ですって。…それより先輩、支度してこないと。ご飯、もうすぐ出来ますから」
 本当はもう少し顔を見ていたいけど、朝はそんなに長くないから。
「あ、ああ。急いで戻るから!」
「はい、いってらっしゃい」
 慌てて洗面所に向かう背中を見送って、わたしは朝食作りに戻る。

「せんぱい」
 ことこと音を立てる鍋。
 とんとん俎板を叩く包丁。

 音にまぎれるぐらいの小さな声で、わたしは呟く。

「だって、わたしが毎朝こうやって来なかったら」

 ことことこと。
 とんとんとん。

「すぐ私のこと、忘れちゃうでしょう?」

 ことことことこと。
 とんとん、とん。  と、ん。


 嫌。
 いや。
 わすれないで。
 わたしのこと、
 忘れないで。


 嫌な気持ちにとらわれて、手が止まった。
 涙が滲んで、視界がぼやける。

 ことことことことこと。

 先輩。
 はやくきてください。
 いっぱいお料理作りましたから。

 わたしがどうにかなりそうだから。



End



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